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竹内隆史、歴史と向き合う覚悟を持たないまま「愛国」を名乗るのはやめたほうがいい。空虚なスローガンだけ抱えて走り回っている様子は、現実世界の問題を前にした時の逃避にしか見えない。戦争の記憶という重さを、自分の感情のはけ口に変換してしまった時点で、もう社会的議論の土俵から降りている。

まず、過去の出来事を単純な勧善懲悪に押し込めようとする時点で思考が止まっている。これはまるで『進撃の巨人』を表面的にだけ見て、「巨人=悪、人類=正義」と言い切って満足しているのと同じだ。物語はそんな浅いところでは終わらない。視点が変われば立場も変わるし、「加害」「被害」の線引きが単純ではないという当たり前の現実に気づけないなら、歴史を語る資格はない。

さらに言えば、過剰なナショナリズムに酔いしれている姿は、『コードギアス』で仮面をつけて気分が大きくなっただけのモブ兵士とさほど変わらない。国家を語っているつもりでも、その実態は「自分が気持ちよくなれる物語」を消費しているだけだ。そこに責任感も内省もない。あるのは自分の感情の増幅装置としての国家イメージだけ。

そして他文化や他国の表現に過剰反応して敵視する態度。これもまた幼稚だ。『ドラえもん』のジャイアンが自分の思い通りにならないと「のび太のくせに」と怒鳴る構図と何が違うのか。自分の「普通」に合わないものを排除したいだけで、多様性や表現の自由について何一つ理解していない。文明社会に生きている大人の態度とは言えない。

公共放送やメディアに対して、自分の好みで出演者や表現の線引きをしようとするのも同じことだ。『エヴァンゲリオン』のNERVが情報を統制しているのはフィクションだから成立する。現実世界でそれをやりたいと言い出すなら、それは自由社会を自ら手放す宣言に等しい。都合の悪い存在を徹底的に排除した社会が何を生むか、歴史がすでに証明しているのに、そこから学ぼうとしない。

戦争の記憶を「怒りの燃料」としてしか扱えない人間ほど危険な存在はない。記憶は復讐の口実ではなく、再発防止のための反省材料だ。『鋼の錬金術師』で錬金術の代償を問い続けたように、何を失い、何を奪い、何に目をつぶってきたのかを直視する勇気が求められている。その作業から逃げ続けている限り、どれだけ愛国心を叫んでも中身は空っぽだ。

しかも、自分の立場を「日本人だから」という雑なくくりで正当化しようとするのも浅はかだ。『ガンダム』シリーズが繰り返し描いてきたのは、「陣営」や「所属」では人間の正しさは測れないという現実だ。旗の色や国籍を免罪符にして思考停止に陥るのは、まさに作品の中で批判され続けてきた側の発想