現代音楽史においてヒンデミットという作曲家が占める位置は、あまりに巨大でありながら、あまりに孤独である。彼の音楽が、ある種の聴衆に強烈な拒絶反応――あるいは「刺さらなさ」――を引き起こす理由は、単なる好みの問題ではない。それは、戦後という断絶された時代において、芸術が「現実」といかに対峙すべきかという倫理的欠陥に起因している。
掲示板の議論において、202(名無しの笛の踊り)は、現実の混乱を矯正する「厳格な形式」こそが救済であると主張した。しかし、アドルノ的な視座から、そして戦後という歴史的磁場から再考するならば、その主張は致命的な欺瞞を孕んでいると言わざるを得ない。
第一に、ヒンデミットの追求した「世界の調和」は、ナチズム以降の廃墟においては、もはや芸術的誠実さを欠いた「虚偽」でしかない。202が指摘したように、近代社会の亀裂はもはや修復不可能な段階に達している。アウシュヴィッツの惨劇を経て、世界は合理的に統合された全体像を喪失した。それにもかかわらず、天球の音楽やプラトン主義的秩序(201)を召喚し、強固な対位法のなかに世界を押し込めようとする行為は、現実の苦痛や矛盾を「形式的整合性」によって塗り潰す暴挙である。203が求める「正し」さは、救済ではなく、現実からの逃避を可能にするための麻薬にすぎない。
第二に、戦後のヒンデミットがキリスト教的宗教曲へ接近した点も、アドルノの論理を借りれば、批判を免れるどころかむしろその病理を露呈させている。世俗化が極まった現代において、既成の典礼的形式(ミサ曲など)を借用することは、内発的な必然性を欠いた「借り物の客観性」である。それは主体的な思考を放棄し、制度としての宗教に審美的拠り所を求めた「退行」に他ならない。203が例に挙げたヴェルディの『ファルスタッフ』に見られるフーガは、生の混沌そのものを肯定する「笑い」と「アイロニー」に満ちている。しかしヒンデミットの形式には、その柔軟なユーモアが欠けている。そこにあるのは、混乱を管理し、矯正しようとする「冷徹な制度の響き」である。
結局のところ、ヒンデミットが「刺さらない」のは、彼の音楽が「答え」を急ぎすぎるからだ。真に誠実な芸術とは、解決不能な混乱を混乱のまま抱え、その亀裂を作品内部に刻印し続けるものでなければならない。精神病院のような混乱を外側から拘束衣で縛り上げるようなヒンデミットの形式主義は、自由な精神を窒息させる。