ガリレオの宗教裁判に衝撃を受け、「私は仮面をかぶって進む(Larvatus prodeo)」とノートに記したデカルトは、自らの『世界論』を封印し、オランダの田舎へと身を隠した。彼は権力と正面から衝突して玉砕する「殉教」の道を拒み、表向きは既存の慣習やカトリックの教義に従う「暫定的な道徳」を被った。その仮面の下で誰にも冒されない純粋理性の王国を築き上げること。それこそが彼の生存戦略であった。
 それから三世紀のち、スターリンによる粛清の恐怖に震えたショスタコーヴィチもまた、まったく同じ悲壮な仮面を被ることになる。「人民の敵」という断罪の影におびえ、夜な夜なスーツケースを手にエレベーターの前で身をすくめていた彼は、亡命も直接の反逆も選ばなかった。代わりに彼が提示したのは、「体制に忠実なソヴィエトの巨匠」という完璧な演劇であった。
 二人が遺した作品の真価は、その精巧な「二重構造」の中に隠されている。デカルトが『方法序説』の冒頭で語った「良識は最も公平に配分されている」という言葉は、一見すると謙虚なレトリックでありながら、実は王や教会の絶対的権威を根底から解体する静かな反乱であった。一方、ショスタコーヴィチが『交響曲第5番』のフィナーレに響かせた派手な長調の反復は、当局には「社会主義の勝利」と映ったが、その内実は棒で叩かれながら「喜べ」と強制される人間の絶望の悲鳴であった。権力を欺く表向きのストーリーを用意しながら、解読力を持つ者だけに真実の痛切な暗号を送り届ける。これこそが、彼らの駆使した二重言語(アイロニー)の技法にほかならない。
 真っ向から「否」と叫んで潰されるのでもなく、魂を売り渡して「然り」と迎合するのでもない。世俗の要求に頭を下げ、冷酷な沈黙や膨大なプロパガンダの陰に身をかわしながら、彼らは最も大切な「精神の独立」の火を絶やさなかった。
 仮面を被り、世間を欺いて生き延びること。それは弱さや日和見の証ではない。言葉が奪われ、思想が罪とされた過酷な時代において、自分自身を最後まで裏切らないために行使された、最も哀しく、そして最も気高い知性の勝利だったのだ。