南方熊楠の代表的論考、燕石考で標的にしているのはマックス・ミュラーの太陽神話学なんだよね
マックス・ミュラー以前のそれまでの人類学は未開人の生活を記録し集めて支配の道具に利用しようとした冒険家や植民地の人間、宣教師に始まり
フーコーの言う古典主義の世界、デカルト的な明るい理性の光の下、啓蒙主義的、進歩主義で未開な社会は遅れた文化を持っている
ミュラーはそれが人間の時代、人間によりきめ細かい生権力を行使してフランス革命やナポレオンや国家総動員の時代の人類学だった
明るい透明な理性じゃなくその下に蠢く不透明な血や民族が問題にされる
啓蒙主義じゃなくよりファナティックなロマン主義、民族主義な人間に関する微細な支配が可能になった時代
南方はその哲学への批判を先行して行っていたわけ
人類学の主流は歴史主義でフレイザーみたいな未開人は劣った未開の思考をしている
一方、ミュラーらはそれはむしろ民族の地の叫びで評価すべきロマン主義だった
一見遅れている物にこそ民族の本質に根差した高い価値があると
南方はそれらを批判してそこには深い抽象作用と世界に対する微細な分析眼があることを既に理解していた