清水高志「メイヤスーと思弁的実在論」(2017-03)
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エリー・デューリングが、ある種のコンテンポラリー・アートに対して行った、実
質的にはポスト構造主義批判でもあった、《ロマン主義》批判を想起しよう。 「不可知なもの」と
しての剰余を強く意識し、たんなる個々の即自的なものを否定するために、むしろ主客の相関関係
のプロセスのほうを実体化して肯定するという形で、「主体」を批判するという方法、それによって
「形而上学」を批判するという言説は、 20 世紀までにすでに多く現れたが、 メイヤスーはこれら
にも公然と批判の矛先を向けている。こうした議論においては、認識の外部にあるモノは、主体と
の相関関係に取り込まれ、いずれにせよそこに回収されてしまわざるを得ない。主体をどこまでも
否定することで、《大いなる外部》へとアクセスしようとすることは、結果的には別種の主体化を次々
ともたらすだけだ、というのである。 ポスト構造主義までの「差異の哲学」は、結局のところ「主
体化されたモノ」についてしか語っておらず、《強い相関主義》を強化する役割しか果たしていない
のだ。