>>685
>>686

>すべての時間が「私」

 そういった超時間的な「私」ではなく、時熟するのが〈有る〉であり、また〈有る〉の場としての
人間。全ての時間が「私」というのは問いとして結論としてまったくハイデガー的ではないが?

 ハイデガーにおける〈有る〉は時が贈るあるいは贈られる。ただにわたしはあると繰り返す
ものではない。で、貴方の言う旧約聖書の超時間性とは違う。時の時熟また〈既有的に将来
する〉という概念で初めて〈ある〉も〈本来的-有〉も掴まえられる。

 その場合の時とは計測的な時とは違う、むしろ計測的な時がそこからしか考えることは
できない、というもの。

 そういう問題はハイデガーに必ず出てくるものだが。彼は時を考えようとしたというよりも
有と関連するかぎりでの時を解明することで有を浮き上がらせようとする。なのでここで
〈時間とは何か〉を解明する方向に持って行くことはハイデガーの問いとは一致はしない。
やりたい人はここじゃない他でおやりになっていただきたい笑
ハイデガーの問いとはあくまでも〈有る〉であり、そこに拘った。で、〈有る〉に関連する限りで
〈自然〉〈時〉〈言葉〉の問いが出てくる。

 きちっと読まないで言及しても、ズレた話しか出てこないものだ。

>すべての時間が「私」だ
>ハイデガーはそこから出られなかったということ

 ちなみに〈全ての時間が「私」〉とはハイデガーで読んだ記憶がないし。どのテキストで
読んだのかな?笑〈私は私。いつでも私〉
そんなことを結論付けたりしてる記憶はないんだが笑。