>>26
定理3に不備、定理4以降に論の跳躍があり、定理7以降は無効となる。
定理2「神はそれ自体で有る」で意味する「有る」と定理3「神は精紳に有る」という「有る」ということが同じ意味であることを前提に以下論が進んでいるが、このことは自明ではない。
前者の「有る」とは「それ自体で」と言われるように実体的な「有る」を意味しているが、後者では「精神に有る」と言われてるように場所的あるいは状況的な「有る」であり付帯的な「有る」である。
そうすると、定理2「神はそれ自体で有る」とされているので、その存在は人の精神の有る無しは関係なく「有る」のであり、「人の精神が無くても定理3.が成り立つため」に定理4が導入される必然性はない。
それゆえに定理3から定理4「神は人の精神である」ということは導かれない。
定理5「神は人に有る」も同様に当てはまる。

もし定理4、5、6が成り立つとしても(つまり、神が実体的に人の精神なので神は人である)、精神は人を構成する部分に過ぎず、部分をもって実体の全体を表わすことはできない。
(たとえば人の爪を以て人そのものとすることはできないのと同様に精神だけを以て人とすることはできない)
ゆえに定理6「神は人である」ということは、定理5からは導き出されない。

以下残りの定理の矛盾点を指摘する。
定理7「神はこの世に子として来る」。子または父ということは相関的なものであり、子だけ、父だけということはない。「この世に子として来る」というならば、それと同時に「この世に父として来る」ということがなければ父も子も存在しない。
定理8の付記「この世に来る前の神は「可能態としての人」として有る」。これは定義3「真そのものを「神」と呼ぶ」に反する。なぜなら真なるものとは須らく現実態でなければならず、可能態のものは真とは呼ばれえない。神は真であるので、可能態であることはない。
定理10「神がこの世に子として来るとき、父はこの世に居ない」は定理9「神がこの世に子として来るよりも前に神はこの世に居ないから、神である父はこの世に居ない」に対応していない。
「子である神がこの世にいないから、父である神がこの世にいない」なら、それに対応するのは「この世に子が来るときは、父はこの世に居る」である。