日常言語の表現の解釈でも代数方程式の解を求めるのと似たような思考プロセス
が働いていることは確かだけど、それを数学のように形式化して手続き的に
厳密にしようとすると、却って恣意的に解釈を縛ることになって、生産的では
ないんだよね。同一言語内でも異なる言語間でも言語使用者による解釈を豊か
にするのは、関係の類似性からの推測であって、あらかじめ決めた公理からの
演繹ではないからね。

例えば、今日、Der Spiegelを読んでいて、"Euro-Rebell Schäffler erfüllt
es mit Genugtuung"という文が出てきたけど、この場合の"erfüllen"という
動詞は、日本語の「う・ま/み/む/め/も」系の表現をすぐに連想させる。
多くの場合、言語が違っていても物事の捉え方には類似性がある。
「erfüllen」は、「満たす」ことで、これは「うめる」、「うまる」と
類似していて、満杯になると、「飽きがくる」というような捉え方をすれば、
「旨い」、「うまく(行った)」、「埋まる」、「倦む」、「膿」、「海」、
「(水で)うめる」が、ドイツ語の「erfüllen」という動詞を介してすべて
類似性により連想上のまとまりを見せることになる。それに対して、
日本語の「旨(うま)い」をすぐに"lecker"(「舐める」に由来する)と
安易に対応させるような発想だと、その類似性が見失われてしまう。