ハイデガーが「本来のドイツ」を探そうと思うのもちょっと分かる。ただ行き過ぎて、ドイツ人を「探して(意識して)しまった」ので、間違えて(ナチスに協力?した)。
ワーグナーと同じ間違いをやらかす。シュッツはそうではない。というか、芸術はその性質上、間違いも何も無いし。

ワーグナーは、音楽に反ユダヤ思想を持ち込むという変なことをしでかした。そして、ユダヤを否定しようとしてキリスト教に行くという・・
どうにも奇妙なことである。、「ユダヤ対キリスト」という、同じものを「対立」させた。ゲルマン人が起源を探して「究極」に行こうとすると、
「十字架」が見えてしまうのだろうか。またもや、キリスト教にひっかかったのか。

 話は変わるけど、「この人を見よ(西尾訳)」を読みかえしていた。十字架に掛けられたもの 対 ディオニュソス というふうに

 これは、「十字架に掛けられたもの対ディオニュソス」であって、これで一つの単語なのである。これは、最初は、
同一性と差異、存在と生成、のような感じで思っていたが、これは、どちらも生成にぞくしていて、「闘い」のこと、かなと、そして「火」かなと、
だんだん、ギリシア(プラトン)以前に戻っていく感じはした。「対」 「VS」 「と」 というものが、「と」は生成の意だけれど。

・・闘いと言えば・・「火の犬」は二匹いるのだが、これは、革命(反動)と国家のことかも知れない。ただ、固定する必要はないけども。
一匹目の犬に対しツゥラトゥストラが二匹目の犬の心臓は、「黄金」と言ったらショックを受けたのはなぜだろう。
、反動のほうだから。でも、これは、能動と反動は切り離せないということだろうか?多分そうだろう。これは、もう主人がいないということだろうか。
でも「国家」というふうにしてしまうと
どうやら、ハイデガーの道に、杣(そま)の道を通って、出でてきて「存在の家」に住まうことになりそうだ。おや、間違えた!ってことになりそうだ。