ニーチェは永劫回帰説を、物理学的な世界観として述べたのではなくて、信じる、信じない
の世界観として述べたのだと思う。

輪廻転生を信じる人がその物理学的実証を必要としないように、ニーチェの永劫回帰説は
物理学的実証を必要としない。

ハイデガーの『ニーチェ』の第二講「同一物の永劫回帰」の中にある「回帰説の成立」と「悲
劇ガ始マル」の章を読んでから、上記のようなことを思いついた。その後、第二講「同一物
の永劫回帰」を飛ばし読みしていると、永劫回帰説の論証に物理学的数学的論証を求め
ることが「いかに的外れであるか」ということをハイデガーが言っている箇所が出てくる。

そしてハイデガーは、同講のその後の章「信仰としての回帰思想」のなかで、ニーチェの
遺稿集のなかで永劫回帰説をニーチェが自ら「信仰」と呼んだり、永劫回帰説を「信じな
い人」という記述などがある箇所などを6ヵ所ほど引用し、次のように述べている。

「所詮、この思想の思惟は、ニーチェがそれをひとつの「信仰」と呼びうるような、そして呼
びうるばかりでなく呼ばざるをえないような類いのものなのである。」

ただし、ハイデガーはこの「信仰」という言葉に但し書きを付けており、次のように述べて
いる。

『ニーチェは、次のような言葉で信仰の本質を特徴づけている。
「信仰とは何か? それはいかに生じるか? 信仰とはすべて、ひとつの真−と−見なす
ことである。」(『意志』 第15番, 1887)』