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>有るとは、常になにものかであるということ。

 それは〈有ること〉についての一規定であって、現象学をそこで思い起こせばよい。
「何かがある」「何かである」という場合、「何か」「(何かがあると言明する主体)」「何かを直観
する対象化」という3つがある。

 「何ものか」だけに照明を当てるしかしないとなれば上記のような、「何ものか」だけにしか
視点が行かないことになる。そうなると事態を正確に視てはいない、ということになる。

 実際には直観においては視る主体が先に有る。視るからには誰かが有らねばならない。
人間が先に有らねば何もない。対象化する人間(誰か)がいなければ対象もないのだよ。
そこがなければ学問もなにもない。研究者も人間だからね。

 そこで〈有ること〉とは何か、に問題を移すことには必然がある。むしろ学問以前の問いと
して起こる必然がある。現象学の先行領域として有の問いがある。有の問いに現象学が
含まれるとするのも当然だとなる。現象学は当時の学問をさらに事態に即して発展させよう
とした。学問の基礎付けとして。しかしそこに謂わば噛みついたのがハイデガーであり
有の問いなわけだ。