ところが、ここからが「人の倫理が自己都合でしかない」ことの本当の問題だ。
「害虫」の個体を殺処分にすることも、「害虫」の集団をまとめて殺すことも、
人の倫理において「仕方のない当たり前のこと」として受け入れられる。
だが、人に実際に与えられている選択肢はそれだけではない。なぜなら、
「害虫」の個体を殺処分にしなくても、栽培植物に被害が及ばないように
無害化することは可能だからだ。例えば、カメムシであれば、最も手っ取り
早いのは、枝葉にとまっている個体の触覚や脚をハサミで切断してしまう
ことである。すると、カメムシはもはや活動できなくなるが、その後も
何日間も生存しつづける。そうなったところで、カメムシが自殺を望む
ことなどあり得ない。つまり、活動できなくなっても、カメムシにとって
は即時に殺処分されるよりは、当面、生命が維持されることの方が
望ましい「比較的良いこと」であることになる。ところが、人はそのような
対応こそを、他の生き物に対する「猟奇的な残虐行為」として最も嫌がる
のである。しかし、それは自分をカメムシの立場に置き換えて、自分が
そのようなことをされたら嫌だ、そのような状況に追い込まれるより、
即死させてもらった方がマシだ、という人としての自分の思いをカメムシに
投影しているだけである。それだけならまだ問題はない。それだけでなく、
人は、そのような思いを同じくする他の人々とまとまって、その思いを
相互に強化し合い、他の生き物に対してそのような「猟奇的な残虐行為」
をする他人を、「倫理観が狂っている」として非難するのである。