一口に善・悪とはいえ殺める行為等の対象に依存し、倫理は行為の射程を定めることを前提とする。

だから合理論では法が「義務」の表象であり、大陸法でも暫時に倫理は法に吸収されるという見解が示されている。この点では「淘汰」の力学を認めるが、

倫理の遷移か消滅プロセスであって倫理の源泉を求めるならカントが立ち開かる。いかに自己を拡大しても「義務」へ転化する構造にはならない。

「行為への客観的強制を表現するところの「〜すべき」によって表象する実践的規則と格律」は「理性使用の拡張」による"消極的効用"によって空言に帰結する。

もしこれに反対であれば、倫理学の本質は期待できない。例えばミード等のポスト経験論によるだろう。

「知識は、それ自身の本性において、自己意識ではなく、範疇のもたらさない有機的関係の中に残され、真理に対応した基準や方法は否定されない」

これは反対の真理ではなく、カントのいう理性の"積極的な効用"の無化、従って倫理学の解体という事態の理解は必須だが、

どうであれ倫理の本性は(その失敗でさえ書記なのだが)、法よりは哲学に吸収される。