「NAM総括」  383頁より


NAM解散以降の私の記録を記しておきたい。率直に言って展望は全くなかった。NAMで出会った人間で頼りになる人間は
誰もいなかった。家族も期待できない。私の父親はアルコール依存症で野垂れ死に同然の死に方をしており、大学もほぼ
自分で生活費を稼いで行った。NAM解散当時、私は三三歳となっていた。NAMの経験から有機農家になろうかと、その当時いた
生家のある高知県周辺でいろいろ 回ったが、しっくりこなかった。私はとりあえず金をためようと、賃金は安いが勝手ができる
警備員をやめ、滋賀・竜王町の 自動車工場の期間社員を三年ほどやった。鉄を溶かしているキューポラ周りの鋳造で、ハンマー
を握りしめ、できたての エンジン原型のでっぱり=パリとり(パラシという)をやった。自動化が難しい非常にきつい単純労働だ。
昔の炭鉱や日雇いの 積み荷おろしを思い起こさせた。私の悪い癖でもあるのだが、どこでも馴染んでしまう。すっかり慣れた。
正社員とはよくやりあった。