夢の実現のために、何が不可欠となるのか、どのような投資が要求されること
になるのか、あらかじめ分かっている者はだれ一人いないので、共に誓いを
結んで集団としての結集して課題に取り組むことにしたとすれば、途中で
こんなことが要求されることになるとは、まったく聞いてもいなかったし、
まったく予想もしていなかったということが、協力する人々の間で必然的に
生じる。その要求を満たすために大きな犠牲が強いられるとすれば、誰が
その犠牲を引き受けるのか。そのような犠牲を強いられると最初から
分かっていれば、その夢の実現のために協力することなど、最初から拒絶
していただろうという事態が生じる。しかし、そこで、誓いを結んでいた
ことが拘束力を発揮するなら、不都合が明らかになった時点で誓いを破る
ことは、罰を下されて当然のこととされ、その罰が極めて重いものである
なら、もはや夢の実現のためなどではなく、罰を逃れたいという恐怖の
ために取り組みをつづけることを強いられる。そうなった時点で、夢は、
その実現のために取り組み人々にとって夢ではなくなり、「目的のためには
手段を選ばない無謀な計画」となって、自らは手段として使われる犠牲者
となる。