言葉の意味が脈絡として繋がらない意見は主観的なチョッカンで文脈を繋いだ
ものにしかならないし、詳しくない不完全性定理を主観的なチョッカンで繋いだ文脈では
そもそも「我思う故に我有り」の「有り」がどういうことなのか自覚できていないし
客観的に意識させるだけの文章にならない。
不完全性定理、我思う故に我有りの有り、どちらも当人の主観が用いた思考で、
それをもって限りなく客観的なことというのは有り得るのでしょうか
と懐疑的になっても客観性の欠落した思考、意識は変わるわけもない。

そもそも「絶対的真理」という概念は客観的に与えられた宿命なのか?
という懐疑的な主観で思考する宿命が、他でもない自らが課しているし
それが宿命かどうかで絶対的真理の客観的根拠が降って沸いてくるはずもない。
第三者が客観的に見れば、主観的な疑念を持つ運命に過ぎなかったということにしかならない。

絶対的真理の概念とその主観に過失がなければ、歴史的事実に主観が混ざっていようが
いまいが絶対的な真理が真理でなくなることはない。
また、歴史的事実を事実でない歴史が混ざっている気がする。と自ら主観的に決めている
意見に意識的な客観性がないのはいうまでもない。
ある意見が自らの知識で辻褄が合わないなら、その意見は無意識に限りなく主観的な
色眼鏡で描かれた世界を見ているのかもしれない。