中国語の表現を、中国語と呼べる体系に即して用いることのできない話者が、
にもかかわらず、中国語の表現を、それが何らかの一貫した体系に照らして
通用するものであるかの如くに流用してつか(使)ふ。これは、謂わば、
「擬態」としての中国語の表現の用法であり、それによって相手を
「ば(化)かそう」とすることである。その相手が、そのような流用に
「ば(化)かされまい」としてその「擬態」を拒絶したなら、「日本語の基礎」
が生まれることはなかっただろう。しかし、実際には、試しに「ば(化)かされ」
てみることが役に立ったため、その「擬態」が「ば(化)かし、ば(化)かされる
ことの相互性」の有用性として確立された。そのようにみづから(身づ柄/
自ら)に役に立つ/つか(仕/使)へるものとして進化させらつづけた「擬態」
としての中国語の表現の流用が、中国語の体系的な規範とはまったく
無関係に、みづから(身づ柄/自ら)が継続的につか(使)ふ言語の用法となった
とき、結果として「日本語」が現前し、「日本語」が成立したと言うことができる。