「する事なす事」という表現があるが、「する」ことと「なす」ことは
違う。次のような文を読むと、ドイツ語においてもそれに対応する
ような違いが、ニーチェにははっきりと意識されていただろうと思う。

Muße und Müßiggang.
Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 2, S. 190-191.
http://www.zeno.org/nid/20009253807

この記述における»(sich) gehen lassen«という表現は、英語に直訳すると、
"let (onself) go"に対応し、『喜ばしい知恵』、河出文庫、p.336では、
「一息入れる」と訳されているが、この»gehen lassen«は、日本語の
本来的な意味での「〜する」に相当する。これに対して、この記述に
おける以下の表現、
>das »Tun« selber war etwas Verächtliches.
において用いられている»Tun«は、日本語の「な(為/成)すこと」に対応し、
ドイツ語の»tun«は、英語の"do"に相当する動詞である。

ドイツ語の表現として»sich gehen lassen«は字義どおりには「自らを
解き放つ」ことを意味し、»sich gehen lassend«という形に変形して
みれば、日本語の古語の「ゆかし」に対応することになるだろう。
しかし、その表現が、現代では、単に「自らを(心ゆくように)解き放つ」
ことを意味することから、「な(為/成)す」活動のために力を
回復することのみを目的として、リラックスすること、つまり、
「(力を抜いて)やす(休)む」こととしてのみ理解される方向に
変化が生じていることを、ニーチェは指摘しているのである。

»sich gehen lassen«がそのように単に「休暇」のためのものと一方的に
理解されるようになれば、「自らを(心ゆくように)解き放つ」
»Leidenschaft«としての»sich gehen lassen«は、人の活動から消え去る
ことになるだろう。