元来恥ずかしいという感情は、目だった行為をしたり皆の前で失敗をしでかしたりしたとき、あるいは自己の欠点や醜いと思っている容姿が指摘されたときにおこる。前者では、その行為によって自分に対する評価が下がるかもしれないことを恐れているのであり、また後者では、他人に対する自己の劣位が知らされることになる。いずれにせよ、自分についての自己評価が、他者との関係のなかで相対的に低下するとき、恥ずかしいという気持ちがおこるのである。いいかえれば、恥ずかしさというものは、当人の自尊心が対人関係のなかで損なわれるような状況で生じる。要するにこのような羞恥(しゅうち)心は、人の笑いものになったり、世評が悪くなることを心配する気持ちと結び付いており、したがってまた、人の目による批評は、社会的な行為を方向づけるうえで大きな規制力をもつことになる。そこで、恥ずかしいという感情は、人のうわさや嘲笑(ちょうしょう)を恐れるという「恥」の意識に転化されるに至る。

 この点に関して、アメリカの文化人類学者ベネディクトは、次のように述べている。「恥は、他の人々の批評に対する反応である。他人から公然とあざけ笑われ、値打ちがないといわれるか、あるいは、あざけられたと思い込むか、そのいずれかによって、人は恥辱を被る。どちらの場合でも、恥はよく効く道徳的拘束となる。だが、それには、実際に人前のことであるか、それとも少なくとも人前でのことだと思い込むか、といった条件が必要である」(『菊と刀』)。つまり、周りの他人を想定し、その嘲笑(本人にとっては恥)を回避しようとするわけだが、それは、「自己の行動に対する世評に気を配るということ」であり、したがってまた「他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める」ことだ、とベネディクトはいう。