出生行為が一般的には中動態として扱われている為に子どもが中動態的存在として見做されてしまうという事がある
社会的には自殺したい場合は迷惑にならない仕方で勝手にすれば良いという仕方で暗に受容されているが、これは尊厳を伴わない"現象としての死"でありその時点において当事者の人権は既に剥奪されているであろう
結局死は避けられぬ必定であって、誤解を恐れずに言えば人間は生きるために生きるのではなく死ぬ為に生きるのであるから、チューブによる延命措置で惰性的に生命活動を継続するのではなく死に方を自ら主体的に選択すべきではないだろうか
出生行為によって主体性の回復が企図される場合も有るが、それはかえって主体性の欠如を反復する事にしかならない