斎藤美奈子『「僕ちゃん語り」の無自覚は犬も喰わぬ。』

(東浩紀の「僕は僕の関心を惹いたものについてだけ、僕の得意とする方法で語りたいと思う」という文章を取り上げて)

この文章のどこが気になるのか。「僕」という一人称、これに尽きる。
詩や小説の場合はまた別だが、エッセイや批評を書く男性には「僕/ぼく/ボク」を好んで用いる人と、けっして用いない人がいる。
たんなる好みの問題とはいえ、気になりだすと、めちゃくちゃ気になる。
169(ヒロキ)と326(ミツル)に共通した表層の印象は「ったく、僕僕僕僕、連呼しよって。よっぽど僕が大事なんだな」である。
そんな風に感ずるのは、第一に彼らが自分語りに必要以上に熱心だからであり、
第二には、当たり前だが、中性化された「私」ではなく、男のジェンダーが刻印された一人称=僕(ぼく/ボク)を使用しているせいである。
もちろん一人称くらい、好きなのを勝手に用いればよいのだ。
ただ、僕僕僕僕と無自覚に連発する人は、自らの「男の子」性を一瞬足りとも疑ったことがないんだろうな、とふとおもったりする。
筒井康隆の「おれ」やビートたけしの「おいら」、町田康の「自分」にはまだしも含羞があるけれど、
軽い甘えと幼さと感傷を含んだ僕(ぼく/ボク)には微妙に鈍感な感じがある。
この鈍感さを感知できない鈍感さが、自分語りを普遍性と取りちがえる、もっと大きな鈍感さへの道を開いたんじゃないのか。
と思うとなんだか放っとけない。彼らに必要なリハビリは、新聞記者や雑誌記者式に一人称を排して書く練習をすることかもしれない。