……すでにのべたように、フロイトは、ユダヤ教の“実質”を与えたとされるモーゼに関心をもっていない。
つまり、律法、供犠、儀礼についてこと細かに指示したモーゼに。
それらは、モーゼの名によって語られているけれども、もともとの部族的な律法や儀礼にすぎないからだ。
モーゼの禁止(戒律)のなかで重要なのは、偶像崇拝の禁止だけである。

このことは、ユダヤ人に対するフロイトの姿勢の二重化をも示している。
一方で、彼は伝統的な戒律や教義のなかに閉じこめられているユダヤ民族共同体に対して否定的であり、
したがってシオニズムを拒否する。
他方で、あらゆる偏見に対して知的に自由であることの根拠を「ユダヤ的であること」のなかに見出す。
それらが、モーゼの両義性――律法による神経症的拘束を与えた者であり、
同時に偶像崇拝の禁止によって知的・精神的解放を与えた者であるーーに示されている。
そして、「ユダヤ的であること」の特質は、モーゼによる偶像崇拝の禁止に集約されている。

……ただ私がつけ加えておきたいことは、ユダヤ的本質のこの特徴ある発展は、
目に見える姿をした神を崇拝することに対するモーゼの禁止によってはじめられたということだけである。
約二千年のユダヤ民族の生活における精神的努力によって身につけられたある優位はもちろんその効果をあらわした。
つまりそれは、筋肉力の発展が民族の理想であるばあいによく生じる粗野と暴力的傾向を防止するのに役立つのである。
ギリシャ民族がなしとげたような、精神的活動と肉体的活動との完成に見られる調和というものは
ユダヤ人に対しては拒まれたままであった。そのうちのどちらかという場合には、
彼らは少なくともより高い価値のあるものを選ぶ決断をしたのであった。

(『モーセと一神教』)(柄谷行人『探求Ⅱ』「ユダヤ的なもの」pp223-224)