ハイデガーは、その「無関心性」によって、「存在の隠れなさ」が示されるのだ、と言っていたように思う。

ちなみに、アレーテイアまたはアレーテイア(古代ギリシャ語: ἀλήθεια)は、パルメニデスの詩『自然について』の中で哲学史上初めて明確に使用されということである。パルメニデスは、言うまでもなく、イオニアの自然学者(アリストテレスのいう「フィシオロゴイ」)の一人であった。
アレーテイアは、「隠されていないもの」、「開示されているもの」、「明らかにされているもの」、「隠されていないもの」という意味だそうである。
ハイデガーによれば、「レーテ」というのが、「隠れている」「忘却されている」ということを表すので、つまりは「存在忘却」のことで、したがってアレーティアは、「存在の隠れなさ」「存在が忘却されていないこと」ということとなる。

なんとなくそんなような気がする、とこれまで漠然と思っていたところ、次のようなことが分かった。
ポール・リクールによれば、ハンナ・アーレントがカントの『判断力批判』に見いだした判断力の政治的性格が、カントの道徳哲学(特に法論)にも拡張された形で再認できるのではないか、というのである。
そして、この種のことを論じている論文が結構あるということも知った。
なお、アーレントのこの考えは、ハイデガーに多くを負っていたことであろう。