ここで、ラテン語の"cogito"をフランス語の《je pense》や英語の"think"に置き換へてしまうと、私にとっての"cogito"という表現のおもしろさは消し去れらてしまう。
むしろ、参考になるのは、"cogito"を形としてそのまま写したフランス語の《cogitation》とそれを取り入れた英語の"cogitation"の方である。

《cogitation》から、表現上、英語の場合の"be-"に対応するとした《co-》を切り離すと、《agitation》が現れ、その動詞としての用法は、《agiter》である。
「アジテーション」やというカタカナ語は、「扇動」に対応するものとして日本語としても馴染みがあるが、《agiter》は、「揺り動かす」や「動揺させる」を意味するように用ゐられる。

ここで、もはや同様の説明を繰り返すのは面倒なので、前の書込みの"be-"とその後に続く表現の部分を入れ替えるだけで、再利用することにする。
すると、次のようになる。

>"co(n)-"という表現は、"co(n) 〜"を示すことによって「"with one"を意識させる」のである。

>それは、事象αについて、「事象αを掛け値なし("with one")に揺り動かす」とき、[...]実際には、それは、「掛け値なし」なのではなく、事象αの「かひ(効)」そのものが「みづから(身づ柄/自ら)」/"oneself"である「な(汝/己)」に対する「掛け値」としてあらは(顕/現)れているということである。

「掛け値なしに揺り動かすかひ(効)」として"with one"/「人(ひと)にともに、もしくは人(ひと)に対して」あらは(顕/現)れるとは、どういうことか。
それは、「動機の働きそのもの」ではないのか。そして、その「動機の働きそのもの」を物象化して日本語の古語で言い換へるなら、それは「由良久多麻能乎(ゆらくたまのを)」と表現できることになるのではないか。
これが、私の導き出す結論である。