ドゥルーズも、いうなれば「強度の場」を「成立平面」とかいう。
その「成立平面」というのも、超越論的統覚とか、等価形態というのと、
認識の「土台」としては大して変わらんと思うわけね。
だから、けっきょくは「現前性の哲学」、換言すれば、「形而上学」だというのは、まあそうだと思う。
デリダの場合は、「非哲学」のまぜっかえしで、ようするに哲学評論ということなのではないの。