ミハイル・バフチン 『小説の言葉』 
平凡社ライブラリー 202ページより

第五章 ヨーロッパ小説における二つの文体
小説と言語・イデオロギー的脱中心化

小説とはただひとつの言語の絶対性を拒否したガリレイ的言語意識の表現である。

この意識 は自己の言語が唯一のイデオロギー的世界の言葉と意味の中心であるということを認めず、国語、
またとりわけ社会的な言語が多数存在していることしかもそれらはどれも等しく〈真理の言語〉たりうるが、
等しく相対的かつ客体的で限界を持つ社会集団、職業、生活の諸言語であることを理解している。

小説が前提とするのは、言葉と意味におけるイデオロギー的世界の脱中心化であり、
言語的側面における文学意識の一定のよるべなさである。
この場合、文学意識はイデオロギー的思考の反駁し難い唯一の言語的環境を失い、
同じ言語の枠内では社 会的諸言語のただ中に、同一の文化(ヘレニズム、キリスト教、
プロテスタントなどの)、同 一の文化・政治的世界 (ヘレニズム期の諸国家、ローマ帝国など)の枠内では
諸国語のただ中に存在する自己を見出すのである。

問題となるのは、人間の言葉の運命におけるきわめて重要で本質的に根底的な変革、
すなわち文化における意味と表現の諸志向の、唯一無二の言語という権威からの本質的な解放であり、
言語が神話として、思考の絶対的形式として感じられなくなるということなのである。
このためには、文化的世界の多言語性や、国語そのものがはらむ矛盾が明らかになるだけでは不十分
である。この事実の、そしてそこから生じるすべての結果の本質が明らかにならねばならないのであり、
それは一定の社会・歴史的諸条件においてのみ可能なものなのである。