だから自然言語では意味や指示が分岐し、多義的になるのは明らかなので、哲学的な言説では解釈のエラーが生じやすい自然言語偏重から離脱せよ、というのが私の主張だと何度も言っているのだけど。

ゲーデルの不完全性定理にしろ、定理と冠しているのだから、証明はあるのだよ。そして、証明は当然、一意的なものである。形式体系の外部から、形式体系の内部には証明も反証も出来ない命題が存在することを(一意的)に証明しているのだから。つまり、定理となるような証明があるということは、その領域では多義的ではない、一意的であるということを意味している。

よって、数学体系にも不完全さが一部あることをその数学体系外部から一意的に定位しているのがゲーデルの不完全性定理であり、数学体系が全て矛盾していることの証明ではないので、自然言語の孕む指示や意味の多義性と数学の体系のごく一部の不完全さを一緒にしてしまうのは、雑過ぎる認識である