>>60
構造の奴隷っていうけど、それは例えば、ある特定の国語体の構造(差異の体系)において、その言語共同体に属する諸個人はその国語体(ラング)の構造に従って発話(パロール)を繰り出すよねってことでしかない
私たち日本人なら日本語の語彙体系や文法体系に従って発話を行うよねっていう話なのでこれは別に決定論とは全然違うものなんだ
構造主義では、ある国語体の構造を解明するために必要なのは、その言語の歴史的な変遷の経過をたどるのではなく、現時点における構造(差異の体系)を明らかにすることだとしていた
つまり構造主義はその言語における差異の体系について、ある一時点の状態を切り取って固定し分析する微分的な方法だったんだ
でもその一時点での状態だけを固定して分析しても生成変化については語れないのでその点を批判したのがポスト構造主義
生成変化について語るには固定されたそれぞれの時点(微小部分)を寄せ集めて繋ぐ積分的な操作をすればいい
構造主義は一時点しか見てないので、その瞬間の構造は解明できても構造の生成変化については語っていなかったといだけなので
構造主義とポスト構造主義は互いにその理論を否定し合うような敵対的な関係はないんだ
微分と積分がそれぞれ独立した別のものではなく本来的に微積分という表裏一体の関係にある一つのものであるのと同じように構造主義とポスト構造主義もまた表裏一体の関係にある一つのものなんだ
(念のため断っておくけど微積分をアナロジーとして持ち出したのは構造主義とポスト構造主義の関係をイメージしやすくするためであって、そこに決して数学的な厳密性を目指す意図はない)
構造主義もポスト構造主義も差異を生み出す分節作用は恣意的なものだとしているため必然的に最小単位の絶対性を否定しているから、どうあがいても決定論にはならない