p=0.05という閾値は、科学における「これくらいなら信じていいだろう」という人間側の都合にすぎない。本来、誕生という取り返しのつかない出来事に関わる領域――医療や創薬――においては、そのような甘い基準でリスクを正当化すること自体が倫理的に疑わしい。
とりわけ問題なのは、数値の厳しさではなく、人間が結果を都合よく切り取る構造だ。治験期間を短く設定し、副作用が顕在化する前の「安全そうに見える断面」だけを抽出することで、新薬はあたかも無害であるかのように承認される。これは統計の問題というより、「苦痛の先送り」を制度的に正当化する仕組みに近い。
反出生主義の立場から見れば、この構造は人間の誕生そのものとよく似ている。すなわち、誕生という行為は、その後に不可避的に訪れる苦痛や死の全期間を評価せず、「存在している瞬間の価値」だけを恣意的に切り取って肯定される。生まれる前の存在しない状態と比較することなく、すでに生まれてしまった者の視点からのみ「生は価値がある」とされるのだ。
新薬の承認プロセスも同様に、「まだ問題が起きていない短い期間」を根拠に安全性が語られる。しかし、その背後には、後に現れるかもしれない副作用という苦痛が織り込まれている。それでも制度は前に進む。なぜなら、人間は常に「今この瞬間の利益」を過大評価し、「将来の苦痛」を過小評価する傾向を持つからだ。
反出生主義は、この楽観の構造に対する根本的な異議申し立てである。誕生も、新薬も、「まだ起きていない苦痛」を軽視することで成立している。その意味で、p値の閾値をどれだけ厳しくしたところで、本質的な問題――苦痛の見積もりの歪み――は解決されない。むしろ問われるべきは、「なぜ我々は、存在させることや介入することを、そこまで急ぐのか」という点なのだ。