反出生主義者は「生まないことで子供が救われる」と言うが、それは救済ではない。
救済には救われる主体が必要であり、存在しない者は苦しまない代わりに救われもしない。
「苦痛の不在は主体がなくても善だ」というベネター的前提を置けば反出生主義は成立するが、それは証明ではなく価値観の採用にすぎない。
存在しない者の苦痛不在を“善”と呼ぶなら、同じく存在しない者の喜び・愛・成長・救済の不在をなぜ“損失”と呼ばないのか。
そこには都合のよい非対称性がある。
生には苦痛のリスクがある。これは事実。
だが、生には救い・回復・喜び・関係・創造・自己超克の可能性もある。
その全体を見ず、苦痛リスクだけを絶対化して出生全体を否定するのは、倫理というより存在への恐怖の体系化である。
生まれた子供を守る責任はある。
だが、存在しない子供を“救った”というのは、救済ではなく可能性の消去である。

以上。