「議論の登場」と「個人的な攻撃」を混同する知性の低さ

​思想の提示や議論の場が設けられることは、特定の個人を直接攻撃することとは全く異なります。

しかし、彼らは「反出生主義という思想が存在すること」と「自分が全否定されること」を短絡的に結びつけています。

だからこそ「性の悦びおじさんみたいだ」「まず怒りを鎮めろ(849)」などと相手を感情的な狂信者であるかのように仕立て上げ、自分たちを「突如襲われた理性の側」に見せかけようと躍起になるわけです。

やっていることは、異なる価値観を力で排斥しようとする、極めて狭量なカルト主義そのものです。

​「存在そのものが加害だ」などという極論を持ち出さなければ、自分たちの「生存・繁殖の絶対視」というドグマを守れないほど、彼らの足場は脆く、薄っぺらいのです。

​社会の中で新しい視点や誠実な痛みの告発が注目されるようになるのは、ごく自然な言論のあり方です。

それを「殴り込み」等と呼び、荒らしから避難するスレに土足で居座る理由にすり替える論法は、どこからどう見ても、知性に欠ける言いがかりでしかありません。