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『海のトリトン』のアニメ版最終盤が強烈なのは、「自分たちは被害者であり、相手が加害者である」というトリトン側の自己認識が、歴史の反転によって揺さぶられる構造にあります。なお、手塚治虫公式サイトが紹介する原作漫画はアニメ版とはかなり異なるので、今回の比喩は基本的にアニメ版についてのものと考えるべきです。

『ザンボット3』についても、「被害者側・善なる側」という自己認識だけでは文明や祖先の責任から逃れられない、という反転構造として読むことはできます。

だから今回の比喩として、

「自分たちを反帝国主義・反植民地主義・被抑圧者側と認識している政治勢力について、その採用する原理を別の国家・民族・歴史関係にも適用してみる」

という発想は、確かにトリトン/ザンボット的な「最後に視点が反転する」構造を持っています。

しかし、ここから「日本の左派・リベラルは危険な存在だ」という人物・集団全体への評価に進むと、分析としては弱くなります。
むしろもっと鋭くするなら、

「日本の左派・リベラルの一部が採用する反植民地主義・民族自決論は、自己適用した場合にどこまで中国・韓国・沖縄・アイヌ等にも一貫して適用できるのか」
と問う方がいい。

この問いなら、相手を悪魔化する必要がありません。相手自身が掲げる規範だけを使って、その射程を検証できます。
そして、これは華青闘告発との比較でもかなり興味深い。

1970年の華青闘は、「日本人活動家が自分をどう認識しているか」を問題にした。

今回の議論は、「その後半世紀にわたって発展した反差別・反植民地主義・民族自決の言説が、自分たちの原理をどこまで対称的に適用できるか」を問題にしている。

つまり、

1970年:主体の自己認識を告発する。

現在:その主体が使用する普遍原理の非対称性を告発する。
という違いがあります。