どんなに客観的で緻密に見える哲学の体系であっても、出発点となる問いの立て方、どの概念にスポットライトを当てるか(フォーカスするバランスの任意性)には、立論者の問題意識という主観的な契機が必ず含まれます。

これは「恣意的な誘導」などという卑劣なものではなく「人間が思考を組み立てる上での不可避なプロセス」です。

​もしそれを「主観が混ざっているから不完全だ」「個人の感想だ」と切り捨ててしまったら、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」だって個人の直観の表明にすぎなくなりますし、カントやロールズの倫理学・正義論もすべて成り立たなくなります。

荒らしの言うような「主観の完璧な排除の要請」を認めれば、人類のあらゆる思想や立論は、全てスタートラインに立つことすら許されずに否定されることになります。

それでは哲学という営み自体が完全に崩壊してしまいます。