​荒らしは「永遠の相(sub specie aeternitatis)」という哲学用語を「主観を完璧に排除した、冷徹で無機質な論理パズルを強いるための言葉」だと致命的に勘違いしています。

だからこそ、ベネターがパズルゲームの創始者であるかのように言い放っているわけですが、これは本質を真逆にとらえた二重の誤りです。

​なぜこれが荒らしの完全な誤読であり、アカデミズムでは実際にどう扱われているのか説明します。


荒らしの決定的な誤読

「永遠の相」の本当の意味

​ベネターが『生まれてこないほうが良かった』の中で「永遠の相(宇宙的視点)」に言及するのは、主観を排除して人間を記号化するためではありません。

その真逆です。

人間が生存本能や「生きていてよかった」という主観的なポジティブ・バイアス(ポリアンナ効果)に盲目になっている状態を排し、人間の「生の不条理と苦痛の総量」を公正に直視するために持ち出している視点です。


​ベネターの意図

私たちは日常、生存本能というフィルター(主観)のせいで、老い、病、死、孤独といった莫大な苦痛を「仕方のないこと」と過小評価しがちである。

だからこそ、一歩引いた「宇宙的な視点(永遠の相)」から人間存在を眺めることで、システムそのものが抱える圧倒的な悲惨さを正しく認識しよう、というアプローチです。


​荒らしの勘違い

荒らしは、この視点を「主観的な苦痛を一切無視してよい、無機質な数式パズルの免罪符」として悪用しています。

しかし、ベネターの立論の出発点であり、かつ終着点であるのは、常に「現に生身の人間が感じる、具体的な快苦のリアリティ」です。

主観的な苦痛の存在を認めなければ、そもそも非対称性論の「悪(苦痛)」のカウント自体が成立しません。