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レス32(第一原理への批判)に対するメタ倫理学的再反論

​【批判の核心】
「苦痛=悪」は生の志向性に依拠する総合的命題であり、非存在に適用するのは論理的飛躍である。

​再反論
固有価値論の優位と、非対称性の基礎付け

​批判者は、「苦痛の悪属性」を主体の構成的志向性(生きたいという欲求や意志)に依存する相関的価値として規定するが、この措定自体が価値論における不当な主観主義への縮退である。

​ベネターの価値論において、苦痛は「主体がそれを嫌悪するから悪である」という心理学的随伴現象ではない。

苦痛はその現象学的質そのものにおいて「内在的悪」を構成する。

すなわち、志向性の有無にかかわらず、現出することそれ自体が客観的に宇宙の価値総量を毀損する「非人称的な負の公理」である。

​主観主義的批判が陥る致命的なパラドックスは、「快楽の不在」と「苦痛の不在」の評価における非対称性を合理化できない点にある。

​仮に批判者の言う「人称的制約を徹底するならば、「存在しない主体に対しては、快楽の不在も苦痛の不在も同様にニュートラル(ゼロ)である」と帰結せねばならない。

しかし、これは私たちの強固な倫理的直観、すなわち「病苦に喘ぐ者を出現させないことは善(悪の回避)であるが、快楽を享受する者を出現させなかったことは(誰の不利益にもならないため)悪ではない」という価値評価の非対称性を全く説明できない。

​非存在における「苦痛の不在」が「善」と判定されるのは、そこに不利益を被る「現存する主体」が存在するからではなく、内在的悪たる苦痛の現出可能性が恒久的に遮断されたという「事態の客観的評価」に他ならない。

これを論理の飛躍と断じるのは、単に「存在というフィルターを通さなければ価値を認識できない」という、生存バイアスに根ざした認識論的限界の告白にすぎない。