>>223-224
この議論について、ベネターは以下のように続けている


【遠くで苦しむ人々と存在しない幸せな人々の非対称性】

私たちが遠くで苦しんでいる人々のことを悲しく思うのは当然だ。しかし、無人の惑星や無人島などに存在していない幸せな人々のために涙を流す必要はない。


この非対称性へ、「後者と同じように、無人島に不幸な人が存在しなくても、喜ぶことはない」という反論がなされたとき、ベネターは「不幸な人が存在しないことを積極的に喜ぶ(良い)とは言えないまでも、その状況を『歓迎できる』という意味において「良い」なのだ」と述べる。
つまり、「良い」と「悪い」の中間的な「やや良い」のニュアンスという意味において「良い」なのだと。
しかしそれであれば、同じ理屈で、「無人島に幸福な人が存在しないことは、積極的に悲しむとは言えないまでも、残念に思う」とも言えてしまう。つまり快楽不在についても、「積極的に悪い」ではないが、惜しい・残念という弱い否定的評価を認めるべきであろう。
結果として、「やや良い」と「やや悪い」で評価が対照化する。
(✳︎そもそも、なぜこの非対称性において「遠くで苦しむ人」という存在者を提示したのだろうか?)

ベネターの様々な主張に通底しているのが、我々の日常的な直観の説明に、ベネター自身の反出生主義的な直観が前提に置かれているので、人々の直観と広く一致するとは言い難い。

批判者側の主張は、「価値付与の過程で反実仮想を徹底的に排除せよ」ということではない。本質的な問題は、>>18の命題3では仮想的存在との比較を通じて「苦痛不在は良い」と説明する一方、命題4ではそのような比較を行わず、「利益を失う主体が存在しない」という理由から「快楽不在は悪くない」としている点にある。真に非人称的価値判断を行うのであれば、両者とも命題4のように【主体不在という状態そのもの】を評価対象とすべきという主旨である。
仮に、反実仮想的人称評価を採るのであれば、快楽不在についても同様の比較評価を行わなければ評価基準の一貫性は保たれない。