柄谷行人って変わった人なんですよ。誤解を恐れずに言うと、彼は「貧しい」人なんです。固有名詞を覚えたり、年表的な整理をする能力、言葉の豊饒性を感じたりする能力がとても小さい。たとえば、柄谷さんのウィトゲンシュタイン解釈とかあるでしょう。クリプキが同じようなことを言っているっていうけど、クリプキのテクストを読むと全然豊かなわけですよ。柄谷さんのエピゴーネンが批評家として自立しないのは当然で、彼の文章だけ読んでても何も出て来ようがないんです。
阿部 貧しいから。
東 そして、日本ではまさにその貧しさがリアルに思えた時期があったんだと思う。日本にだって、ドゥルーズやデリダの過剰な文章を読解する能力が発達している人なんていくらでもいたわけだけど、それはむしろ無意味に見えた時代。柄谷行人の徹底して貧しい哲学こそが、もっともリアルだった時代があった。一九八〇年代末から九〇年代初め、まさにバブルの頃がそうだと思うんですが、そのときに新本格が生まれたことには何らかの意味がある。(「阿部和重対談集」p.273-4)

正しい認識なのでは。この後阿部がハリウッドも「構造だけ」になっていた時期だったというようなことを言っているが。