トランプにしても暇空しゃんにしても、必要であったということは左派としても認めざるを得ないのではなかろうか。問題があってもそれが「正しさ」ゆえに指摘できないというのであれば、「正しさ」などなくても指摘できる存在が台頭することは端的に必要なのであろう。必要とは怖いものだと言ってもいいのかもしれないが(藤田省三がどこかで言っている)。