桓武天皇は794年に平城京から長岡京へ遷都しましたが、その直後に藤原種継が暗殺されるなど、藤原氏に不幸が続きました。藤原乙牟漏、藤原旅子、藤原帯子ら次々と要人が亡くなり、流行病や怨霊が原因だと考えられていましたが、唐・新羅による百済支配の終焉も深く関係していた可能性が高いです。

唐・新羅による百済占領はわずか70年ほどで終わりを迎えましたが、朝鮮半島では百済に勝利したにもかかわらず、日本列島では百済に下剋上されたという屈辱が、大陸側の史書に日本占領の詳細な記述がない理由なのかもしれません。

桓武天皇が即位した時、「神皇正統記」の応神天皇の条には、「昔、日本は三韓と同種なりということありし。彼書桓武の時代に焼き捨てられしなり」と記されています。「彼書」とは、藤原仲麻呂が書いたとされる幻の書「日本書」を含む、白村江の戦い以前の歴史書を指します。万世一系思想に都合の悪い歴史が焼き捨てられたことが書かれています。

この時、継体天皇の子孫である倭王の阿毎多利思比孤(あまたりしひこ)と和歌弥多弗利(わかみたふり)の名前も消され、隋書の600年にある倭王の記述と辻褄が合わなくなりました。また、万葉集は焚書されずに残されたため、上代日本語が一時八母音になるという謎の現象が起こり、研究者を悩ませることになりました。