聞くこと、演奏することはそのものの内室、そして互いの全人格的体験としてある。
簡単にいえば音の高さ、大きさ、パワーではなく、その演奏者のもつ自発的発展力、融合力という非常に開放的なパワーとしてある。
音のデカさを売りにするプレイヤーはまさしく自分のバカさ、単純さと比例するマヌケとして活動しているのだろう。
そして今、トラディショナルジャズ、あるいはアウトサイドを使ったジャズなどが一見自由にまた先鋭的にやっているように見えるかもしれない。
しかしそれはどこまでも、なれあい、弱さとしての自己撞着信者である。自由、先端と見せて、実はそこを守ることだけなのである。
そこへではなく、思想や行為の連続性によるもであり他者との開放的関わり方、自己否定、自己変革へ向かう場としてジャズがあるのである。