日本の音楽評論の羅針盤、渋谷陽一が問う「私」の視点―渋谷 陽一『渋谷陽一評論集 メディアとしてのロックン・ロール 1972-1996』武田 砂鉄による書評(ALL REVIEWS)
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◆エモーションの根拠、考えよ、見つけろ

雑誌『ロッキング・オン』の創設者にして、音楽評論家の評論集が上下巻・計1000ページを超える大著の形で刊行された。これでも、あの原稿が足りない、こっちじゃないだろ、との声が出るはず。彼の語りは、目の前にある文化芸術をどのように捉えるべきなのか、その羅針盤であり続けた。ただ、羅針盤であっても、それが法規になるわけではない。それは『ロッキング・オン』が投稿誌の形で始動した時から変わらない。1972年8月号、創刊号にある宣言文には「ただあるのは冷たくさめた視点だけ」と記されている。

評論とは、対象となる作品の存在をよりよく伝えたり、厳しい言葉をぶつけたりするだけではなく、常に、その作品に向かう自分が表出するものだとする態度が徹底していた。「他者としての視線を経ない限り、我々は自分自身さえ見ることができないのだ」「自分とのコミュニケーションとは、自らを対象化することであり相対化していくことであるのだ」とあるように、私はいかに存在しているのかとの問いを無数の作品にぶつけた。アーティストの作品や存在を最大限光らせるためのアシストをするために書くのではないのだ。

『ロッキング・オン』だけではなく複数の雑誌を刊行した。総合誌『SIGHT』では、アメリカ同時多発テロが起きた後、アメリカの対応に対し、「報復は不毛」「軍事的にも有効性は少なく、ハイリスクな行為である」との考えで特集を組んだと明らかにした。昨今、簡単に使われるようになりすぎた言葉、「偏向」を使うならば、政治の話題にせよ、音楽のレビューにせよ、偏向する理由を正面から言葉で探し当てていた。

ある時期から「希望と抵抗を歌うロックが、絶望と逃避を歌うものになってしまった」「エモーションの根拠が絶望やシニシズムになってしまった」。目の前にある社会を睨(にら)みながら、「まっとうであろうとすればするほど、そうした発想の袋小路にはまってしまう可能性」が高くなってしまった。

推し活なる言葉が浸透しているように、供給する表現者と受容する消費者の距離が…