>>304-305
まず、主観と客観という言葉の定義から考えなくてはいけない。
言葉の定義というのは、分類、分析ということだ。
それがいい加減だと、言葉の遊びになる。

主観というのは、個人がなにかを見聞きして、それに伴うなにごとかの心の動きのことだ。
客観というのは、なにごとかのそのものをさす場合もあれば、個人の主観の集積のようなものをさす場合もある。
前者の視点を明確にしたのがカントで、後者の視点から主観と客観を混同しているのが君だ。

僕は不勉強なので、ヘーゲルの水泳の話も、メルロ=ポンティの「反省的分析」に関する発言も知らないが、ヘーゲルもメルロ=ポンティも君のような言葉の定義を曖昧にしたままでの文脈で使っているとは思えない。
もし君の言う通りなら、僕のヘーゲル理解とメルロ=ポンティ理解が違っていることになるが、いまのところは自分の理解の方が正鵠を得ていると思っている。
もちろん主観だが。

>主観があって客観がある。客観があって主観がある。
>「それ」は「それだ」と言ったから「それ」なんだよ。

主観があろうとなかろうと、カント的な物自体という意味での客観はある。
「それだ」と言おうと言うまいと、「それ」はある。

客観によって主観が形成されるが、主観によって客観が形成されることはない。
主観が客観に対してなんらかの客観的な動きをした場合に、はじめて客観が変化する。

主観と客観の関係を明確にしたのはフォイエルバッハだ。
フォイエルバッハの源流はヘーゲルのあり、マルクスはいうまでもなく、メルロ=ポンティもサルトルもフォイエルバッハの後継だ。