以下、「シュルレアリスム論」瀧口修造『近代芸術』107頁より(瀧口全集12に再録)

《ヴァシェやジャリからシュルレアリストへ発展したユーモアを、アンドレ・ブルトンはとくに
「客観的ユーモア」と呼んでいる。この観念は「ポエジー」と同じく彼らの本質的な機能とされている。
 彼はヘーゲル的な広汎な意味でのロマン主義は今日なお終結していないという。「ヘーゲルはこのよう
な芸術(ロマン的)が陥る二つの大きな危険として、 いわば偶然な諸形態における自然の無能な模倣とユ
ーモアとに注目した。そしてこの両者の融合点として客観的ユーモアというものを提示しているが、彼の
死後相ついで起こった芸術の諸運動 (自然主義、印象派、キュビスム、未来派、ダダイスム、シュルレア
リスム)を思えば彼の言葉が予言的な価値を持っていたことを認めないわけにはいかない。」
…そしてシェルレアリストはヘーゲルのいった意味での「客観的ユーモア」の立場をとるものだ
とされる。(Breton : Misere de la Poesie, 1932)》

参考:
『赤色戦線』・アラゴン事件(下)
 《…ブルトンはこの告発には反対したが、『赤色戦線』にたいする作品評価の点ではまったく否定
的だった。『詩の貧困』(一九三二年三月)のなかに彼は書く。「ふたたび『赤色戦線』にもどって
言えば……わたしは断言せざるを得ない──この詩は、詩に新しい道をきりひらくものではなく、
この詩をもって、こんにちの詩人たちが見習うべき模範とすることはむだであろうと。その主な
理由は、このような(詩の)領域においては、客観的な出発点はただ客観的な到達点に達するだけで
あり、この詩における外部的主題、とりわけ議論を呼び起こす主題への後退は、こんにち、もっとも
進んだ詩的形式から引き出される歴史的教訓とは一致しないからである……この詩は絶えず特殊な
事件、社会生活の状況によりかかっている。この詩がアラゴンのソヴェト滞在中に書かれたことを
思えば、この詩を、現在提起されている詩的問題にたいする時宜を得た解答と見なすべきではなく、
各人がめいめい好きなように行なう習作と見るべきである。なぜなら、詩における後退の別名は、
状況の詩ということである」》