ところで、世界がe^χとして現象するとする。我=e^−αがどうあろうと、それにかかわり
なく世界がそのように現象すると考えられる限りで、現象する世界e^χは我に無関係の
自己同一性を有していると見なされ、現象する世界e^χ×1において1=e^0=人が
意識されることもない。e^χ×e^0=e^(χ+0)=e^χである。

ところが、そのようにあるがままであると思われていた現象する世界e^χにおいて、
意外なことが生じる。例えば、存在すると信じていた事物が錯覚による幻想に過ぎなかった
という経験である。そこで意識されるのが、現象する世界e^χにおいて暗黙の前提と
されていたe^χ×e^0=e^χにおけるe^0=1=(e^−α)/(e^−α)、すなわち、
我/我=1という同一性の自明性である。そのときに初めて、あるがままに現象して
いると思われていた世界が、(e^χ)×(e^−α)=e^χ−αとして、いわば、あるがまま
であるはずの世界e^(χ±0)の劣化バージョンとして意識されることになる。ただし、
我がいる「いま、ここ」を起点とするなら、やはり、我/我=1=e^0を前提とすること
になり、あるがままであるはずの世界の方が、(e^χ)×(e^α)=e^χ+αとして
意識される。したがって、我<人<主の関係と同じく、世界の異なるバージョン、
e^χ−α<e^(χ±0)<e^χ+αの間の関係は相対的である。