何よりベネターの致命的な欠陥は、「その人にとって」という前提を抜かして議論していることです。
だから、「苦の不在は、それを感じる人がいなくてもよい」とか、わけのわからない
ことを言い始めて強引に反出生の議論と結び付けようとするのですが、およそよいとか悪いとか
いうのは「ある人にとって」という主観的な意味しかないのであって
(まあ、これは大問題で、賛成する人はあまりいないでしょうがw、私にとっては
考える余地のない当たり前の話です。)
「客観的にそれ自体で」よいとか悪いとか、「存在しない人にとって」よいとか悪いとかいう
言い方は、意味をなしません。

さらに、混乱に拍車をかけているのは、たとえば「苦の不在はよい」というのを、
「歯が痛いのが治るとすごくうれしい」みたいな話と混同しているとしか思えないことです。
理由が何であろうと、当人が「うれしい」と感じているなら、それは「快の現前」であって、
当人にとってはよいに決まっています。

たとえば、歯が痛くてつらいなら、それは「苦の現前」です。
歯医者の待合室で雑誌を読んでいたら面白くて痛みを忘れて読みふけったなら、それは
「快の現前」です。治療でがりがり削られて痛いなら「苦の現前」だし、
治療が終わってほっとして、痛みが取れてウキウキしているなら「快の現前」だし、
他の歯が虫歯になったらと不安になったり、今まで忘れていた仕事の悩みを
思い出して憂鬱なら「苦の現前」です。そういう気分が混在しているなら、
「快と苦の現前」というしかないでしょう。
このように、人間の快と苦は複雑にないまぜになりながら、一瞬ごとにつねに
流動変化して定まらないのが普通です。

で、この話は心理学や文学の題材にはなるでしょうが、どう考えても反出生主義とは
あんまり関係がないのです。
まあ大抵の思想やイデオロギーについても同じなのですが、べネターの本を
奉っている人たちは、実際には読まずに結論だけ採用しているのだとしか思えません。