「死は喪失だ、奪われることだ、犠牲者がいる、だから生まれないこととは違うのだ!」
と力説する人が多いのですが、それはすべて「他人の死」の経験から来る日常的な心理や言葉遣いに引きずられた結果で、「自分の死」に関する限り、厳密に言えば「錯覚」です。ベネターも「快の剥奪」とか意味のわからないことを言っていますが、快苦というのは瞬間ごとの状態なので、「剥奪」など原理的に有り得ません。彼はそもそも「不在」と 「回避」の区別もついていないので、話になりません。
正確には、喪失感とか剥奪感とか、喪失や剥奪の予想に伴う悲しみとか怒りとか恐れ(死の恐怖はその一つ)などは、すべて「苦の現在」の一例です。

厳密に言えば、私が死んでも私は何を喪失するわけでも奪われるわけでもありません。単純に、過去も未来も存在しないので奪われようがなく、現在はすでに存在しているので奪われようがないからです。
エピクロスの有名な言葉で「私が存在するときは死が存在せず、死が存在するときは私が存在しない。だから死は私から何も奪うことはできない」というのがありますが、まさにこのことを指しています。
実は、べネターも脚注かどこかでエピクロスに触れて、「本当はそうなのかもしれない」とか自信なげにゴニョゴニョ言っていますw

前スレ>>772
〉殺人の害悪性は、どのような知性レベルの出生厨の皆様でも理解することが出来るかと存じております。

いえいえ、出生厨かどうかはともかくw、哲学とか反出生主義とか聞いたこともない大多数の人は、基本的に誕生はおめでたいことで、生きているのは(多少の苦痛を含んでいてもいずれ死ぬとしても)良いことだ、と思っているので、「殺人の害悪性」は当然と考えるでしょうが、反出生主義は(というか少なくともあなたはw)、誕生は害悪で生を与える犯罪だと主張しているのですから、現に生きている人はすべてその犯罪の被害者、生の害悪を受け続けている犠牲者だ、となるはずです。ですから、常識とは反対に、殺人はその被害からの回復、犠牲からの解放として「善行」となるはずでは? とお尋ねしているわけです。