私は音声言語を意思伝達なり考察なりの手段として
ことさら特別なものだとは考えません。
もともと言語は感情と同じ構造のものだと考えています。
構造というのは意味とその媒体のセットのことです。
音声言語によらない意思疎通云々というのは、
たとえば貰い泣きとか貰いゲロとかもある種のコミュニケーション
かもしれないからです。
この場合は感情や感覚が音声言語によらず伝達されているように見えます。
このとき言語におけるるシニフィアンとシニフィエとにあたるものは
もう少し広い意味を持つことになります。
そして私はそのレベルであっても意味とその媒体は分離が不可能
だという印象をもっています。
ただ実はこの構造は、世界がそのような仕組みのものとして創られている
というよりもむしろ
認識者は世界をそのようなものとして認識するしかない
というかんじのような気がしています。
いずれにしても、認識されている世界は意味の階層として成立している
ということを前提にしています。

しかし>>747からの考察をみると、私の世界観のさらなる前提には
客観的な視点があることに気付かされます。
確かに主観主義的な視点からすれば意味とその媒体が分離されることは
あり得る気がします。
考えてみると、私は世界を主観のネットワークと意味のヒエラルキーとからなる
と解釈しておくのが望ましいとか主張してきたにもかかわらず
じつはあまり深く考えていなかったのだろう思います。
確かにうやむやが多かった気がしています。
この機会にちょっと考えてみるつもりです。