>>769
私の感覚で言うと意味が完全に無いということは無い感じがあります。
例によってポーカーでいうと、手が成立していないものでも
「ブタ」としての意味があります。
全くランダムな音の羅列であっても、そこに何らかのイメージが生じ、
知らない外国語の場合は本来の意味が理解できていなくとも
違う意味を受け取っていることになると考えます。
また、私は言語以前のイメージにもそれはそれで身体感覚か何かの媒体は
必ずともなっているであろう気がしています。
順番で言うと、思考に言語をあてたのではなく、言語は思考そのものであり、
あるいは言語にあたるもの(媒体)が無ければ思考もあり得ないような印象です。

ただ、考えてみるとこれは事後的な分析であり
言わば客観的な視点からの考察です。
今この瞬間には意味とその媒体とを同時には認識出来ない気がします。
世界は意味の階層として解釈されたとしても
現実では私たちは常にひとつの層にいるしかない、
創発(意味の成立)だのゲシュタルト崩壊(意味の崩壊)だのと言って
絶え間なく層を上ったり下ったりしていたとしても、
ふたつの層に同時にいることはあり得なさそうな気がします。
シニフィアンとシニフィエとでいうと、
同時に両方に着目することはできないということです。
つまり主観的な視点から言えば「層」は無いのでは無いか、
少なくとも階層構造そのものを体験することはできないのではないか、
というお話です。

ちなみに私はじつはウィトゲンシュタインはよく知らんのですが、
言語の意味は使用とか、私的言語は不可能とか、
これらについては私もパッと見ながら私の直観とも反します。
私は他者の意識の存在を信じていますが、
それはあくまでも仮定であり、あるいは仮定でしかあり得ず、
つまり意識は私的なものでしかあり得ない気がしています。