循環はそれ自体では破綻する。何故なら、循環「させる」ものがそこに欠けているからだ。「何が循環を可能にするか」を語ることなしに、循環がそれ自体で現れることはない。循環の原因は「循環させるもの」による。循環させるものが循環を形成するのだから循環させるものは循環の支配者である。

この循環運動を、「独り言」のように孤立した要素による作用としてではなく、既に、それぞれの要素が他方と通じ合っているものとして志向しており、その原因を思惟するなら意識に帰着する。それ故に、意識がそれぞれの要素を循環させるのである。

また、循環させるもの(意識)の原因は循環それ自体による。循環が無ければ、循環させるものは現れようがないからだ。これは、循環自体こそが真理ということではなく、循環は循環させるものによって現れるし、循環させるものは循環を通じて理解できるようになるということだからだ。

「循環させるもの」と「循環それ自体」の循環に於いて、即ち、このプロセスの全体に於いて、これ以上の否定が出来ない為に、意識は、区別的かつ統一的な社会的真理を把捉する。この真の把捉は、真理それ自体だけではなく、その真理を把捉する存在(意識)も含めて真である。

つまり、「対象」と「主体」のどちら側が欠けても自己矛盾してしまうのだから、対象と主体による全体が真理であるということである。意識のハードプロブレムに於いて、この独立的な三者の相互的な関係性に於いて、意識や対象は成立するのである。