ただし、これについて、「『循環それ自体』と『循環させるもの』の循環」を形成するものも意識であり、そうした説明を続ける限りは、何処までも無限後退するのであり、恣意的かつ非論理的な暗黙の了解(意識)を前提にしなければ成立しない議論だ、と批判できるだろう。しかし、人はそうした暗黙の了解によって存在を形成するのである。それは、それ自体が自明である故に証明は不要だが、それ故に、他者と対立する場合、容易にその正当性が揺らぐ了解である。暗黙の了解によって主観的な対象は形成され、その対象が意識を反照することによって主観的であるだけの意識が形成されるのである。

故に、先程まで語られていたのは、いわば「主観的な真理」(主観的な対象と意識)である。しかし、その内部にも独立的要素と意識による統一という社会性が含まれていた。それ故に、認識論は社会論と接続し得るわけだが、客観的な対象と意識は、即ち、無限後退に相応しくない対象と意識は、自己だけではなく他者も含めた現実的な社会に於いて形成されるだろう。何故なら、意識は、自らが対象としている対象を試し続けることにより、客観的な対象を形成し得るからだ。その対象の評価を受けて、意識は客観的な意識の在り方を理解するのである。

客観的な意味で対象と意識の循環が成立する場合、「どのような意識(対象)が真の意識(対象)か」という問題が、他者の批評と同意を基準にして解決される。それまで主観的な思惟としてあった前述の理論が、現実的な形で三者によって確証されることになるからだ。ここに於いて、理論的なものと現実的なものが等しくなる。そして、恣意的な前提としてあった意識が、社会に於いてその自己中心性を反省することによって改められる。このような、「客観に相等する主観」に於いて、恣意的な意識につきまとう無限後退は退けられ、「意識のハードプロブレム」に於ける「意識」の生成の問題は解決された、と言えるだろう。